忘れられた人々

渡辺ヤスヒロ



0 序文

 『記憶』、それは儚い。
今作りだされた記憶も一瞬後には新たな記憶に取って代わられる運命にある。
(びっくり日本新記憶)

 物覚えの悪い人というのは結構いるもので自分もそうだという人も珍しくはない。
英単語や漢字、歴史年号や人物名、公式など覚えてさえいれば良いという事柄の多い受験生でなくとも、自分の記憶力がもう少し良ければと願わなかった人はいないのではないだろうか。テストの時に肝心なことが思い出せず、そのくせどうでも良いような事ばかり覚えている自分に苦しんだ経験を持つ人も多いと思う。
 また、受験を遠く済ませた人には、あの時苦労して覚えたものがまるで思い出せなくなっていると感じている人も多いのではあるまいか。
 記憶というものは本人が意識しなくては出来ない部分があるにも関わらず、本人の意思と無関係に消えてしまったりする。
 そこで本論文では次の2点に関する疑問点を追求し、その原因を探って見た結果を報告するものである。

1. 明らかに覚えなくてはならないと本人が自覚していることでも人は忘れてしまうのは何故か。
2. 重要なことの代わりに下らないことを覚えているのは何故か。


1 記憶とは

 記憶すると言うことはつまり様々な情報を物理的な形に変化させて保存することである。全ての情報がどの様に記録されているかはこの際割愛するが、例えばコンピュータに何かを記録させるということが近いのかも知れない。電気的磁気的な方法によって情報を記録する。
 それらの電気的な記録情報の操作がいかに簡単かと言うことは情報処理関係者ならば周知の事実である。コンピュータを使えば、記録させたいと思った事柄を記録する事や削除したい事柄を記録から削除することはまさにボタン一つで行えるのである。
 人の記録方法がコンピュータと同じであるとは言えないが物理的に情報を保存していることに代わりはない。名刺を渡され名前を聞いて覚えようとすれば、普通はしばらくの間忘れたりしないでいられる点からも覚えることにそんなに手間がかかるような気はしない。
しかし実際には、人は記憶したいことを覚えることも忘れたいことを忘れることも自由ではない。


2 忘却とは

 忘れるというのは保存された記憶情報が失われることであると一般に考えられている。しかし情報自体が失われているのではなくそこへ到る経路、つまり情報を引き出せなくなる現象であるとも言われている。
 情報処理にとって最も重要なことは情報を記録(記憶)することではなく情報を使うことである。必要な情報を必要な場合に素早く取り出すことこそが重要であり、記録することが主目的ではない。人の場合には画像や音声等の情報を整理し、より重要か又は頻繁に使うと思われる場合には引き出し易い部分に記録していると考えられる。その時うっかり奥深くへしまい込んでしまうと簡単には思い出せなくなるのではないだろうか。


3 記憶優先度

 記憶が物理現象であることは前述の通りである。すると当然その記憶容量とも言うべきものにはおのずと物理的な限界が生まれてくることになる筈である。全ての情報を子細に記録していては必要な情報の選択以前に記憶量だけでパンクしてしまうのは容易に想像される自体である。新たな記憶のためにも忘れることが必要なのだ。
 人は複数の動作を同時に意識して行うことはできない。テレビを見ながらポテトチップスを食べたり、煙草を吸いながら車を運転したりは出来るが実際に意識しているのはどれか一つである。この事から考えるに記憶出来る事というのも一度に一つのことだけなのではないだろうか。確かに何か気になることを考えながら暗記科目の勉強をしてもまるで頭に入らなかったという話は良く聞くところである。
 以上の2点から言えることは、記憶する事柄は選択されているということである。多くのものを見、聞き、感じていても記憶されることはそのうちの何か一つに関することだけなのではないか。そのときに優先的に記憶されたもの以外の事柄は記憶されない/雑多な無価値な情報として取り扱われるのではあるまいかということである。瞬間的な重要さの変化による記憶優先度の変更が行われている可能性があるという訳だ。
 すると当初の疑問の内の2つ目にはこのような結論を導き出すことが出来る。
 本人が重要だと思っていることを記憶しようとしたその瞬間に目に付いた(気が付いた)下らない事柄の方が優先されて記憶されてしまい、記憶したいと思った事柄が本来の重要さで記憶されなかった。
 後から考えて下らないことがその場では、記憶すべき最も重要な事柄であったというのは割と不思議なことではあるが、生物学的/進化論的に重要な事柄の方が人間社会的に重要なことを凌駕するのは不思議ではない。現在の人間社会では何でもない事柄が厳しい自然界で人間が生き抜くのには重要な情報であったというだけのことであると考えられる。
 更に言える事としては、生物学的に見て重要でない事柄は記憶されにくいのかも知れないという事がある。
 初めて会った人の名前よりもその人の顔や外見の方が覚え易いことがあるのは恐らく生物学的に見て名前が無意味なものであるからだと言える。顔や印象に比べて名前の方が情報として見た場合に遙かに少ない記憶量で済むにも関わらず覚えられ難いのはそのせいであろう。しかし生物学的に全く不要と思われることも人は覚えていくことがあるのも避けようのない事実である。覚えようとする意思がそこに介在することを否定は出来ない。では何故人は意思の通りに記憶を使用出来ないのか。ここで改めて最初の疑問に立ち返ることになる。


4 忘れていくこと

 重要なことを忘れる時には多くの下らないことも忘れていると言う事実もあるが、大事な事の代わりに下らないことを覚えていることもある。忘れたいと思っても忘れられないこともある。忘却とは人にあって人に制御できない特殊な情報処理能力の一つである。
 また、記憶はしているが引き出せなくなっているという証明として、催眠術を使ったりすれば忘れたと思っていた記憶(情報)も引き出せる(らしい)という報告もある。
 精神衛生上必要という考え方もある。苦しい事辛い事を忘れることによって、人は楽しく暮らしていけるというものだ。なまじ人類には自我や社会意識が芽生えてしまったばっかりに他の生き物の用に本能のままに生きられなくなってしまっている。過去にいくら辛い出来事があったとしても人は生物として生き、種を保存させねばならない。そう考えると忘却の与えるメリットは大きい。忘却が人類にとって必要不可欠であったとも言える。
 死ぬほど恥ずかしい体験をしたとしても忘れることによって生きていける。忘れられなければそれこそ死んでしまうかも知れない。過去の日本の侍は恥を雪ぐために切腹するほかなかった。それは決して回りから攻められるためだけではなく、本人の意識が恥を記憶し続けて生き続けることが出来ないと感じたからであろう。現代社会においてそれが続いていないのはどんな事件もいつか忘れて幸せに暮らせる日が来ると信じられているからではなかろうか。
 しかし、それならば本人が忘れたいことだけが忘れられれば良いのではないだろうかという疑問点は残る。記憶のシステム上、一つの事柄を忘れるために他の事も忘れざるを得ない場合があることは仕方ないにしても忘れすぎているように思われるのである。何か他にも忘れなければならない理由があると考えた。すると、ある筋から恐るべき情報を入手することが出来たのである。


5 忘れて…

 誰でも『七不思議』というものを一度位聞いたことがあると思う。学校の七不思議のことである。七不思議の具体的な内容は学校によって微妙に異なっているが共通することが一つある。全てを知った者は死ぬと言う『七不思議』自体の怪である。人が怪談好きな事を知って広められた恐怖の人類抹殺計画であることは言うまでもない。ここで人類が成しえた最大の防御策が忘却なのではあるまいか。順番に聞いていても全てを聞き終えた時に1〜6の内いずれかを忘れていることが必要だったのだ。もしかして忘れない人間は淘汰されてしまっていたのかも知れない。


6 終わりに

 忘れるというのはかなり不便なことの様な気もするが、自分ではどうしようもない心配事を忘れられなければそれこそ人類は胃潰瘍や精神病でやられてしまうことになる。全ての人が悩みを解消出来ず、悟りを開くことも出来ないならば忘れてしまうのが一番なのだ。全てを忘れて踊っていれば悩みなんが吹き飛ぶかも知れないということだし。

 忘れるということは人にとってそんなにも重要なことなのだから忘れられても仕方がないと言えるかも知れない。が、人は忘れものをしたり待ち合わせや締切りを忘れた人に対して何故か非情である。旧人類なのかも知れない。

参考資料

 映画『学校の怪談』1,2
 忘れてしまったがその他多くの参考文献があったと思う。



論文リストへ