自然環境は守るべきか

ひあろ



1.自然とは何か

 ここに、俗に「ダム建設の問題」と呼ばれる命題がある。
 ----よく、自然と人工などと言われるが、ビーバーがダムを造るのは自然なことなのだろうか? 人間がダムを造るのは自然ではないのだろうか? 蜂が巣を造ることは自然で、人間が家を造ることは自然ではないのだろうか?----
 これは、「何をもって自然というのか」すなわち「自然の定義」を問うているわけである。難しいことではあるが、やはりここは明確にしておかねばなるまい。自然の定義をしておかなければ、それを破壊することはできないし、守ることもできない。
 手元の辞書によれば、自然は「人工の加わらないそのままの状態。(対)人工。天地間の万物。宇宙。」とある。ここから、「自然」には狭義の自然と広義の自然があることがわかる。すなわち、狭義の自然=人工(人間が作ったもの)の対義語としての自然と、広義の自然=人間や人間が作ったものをも含む、宇宙万物としての自然である。
 一般に「自然破壊」や「自然保護」と言われるときの自然は、狭義の自然を表すことが多い。「自然」対「人間」の図式である。「自然」を破壊するのも、保護するのも「人間」だというわけだ。とりあえずこの論文中でも、狭義の自然を「自然の定義」としたい。やや強引な気もするが、ここでは自然と人工は人間を媒介とするか否かその1点のみにおいて、全く相反するものである、としておく。この見方に立てば、ビーバーのダムは自然だが、人間のダムは自然ではない。ちなみに、この「ダム建設の問題」は、広義の自然(宇宙万物こそ自然)を認めた(と言うより、どちらかと言えば広義の自然こそ自然じゃないのか、という側に立った)者からの、問題提起である。

2.自然破壊と保護

 人間はその歴史の中で、自然を破壊しながら、あるいは自然を破壊することによって繁栄してきた。木を切り倒し、水を汲み上げ、山を削り、海を埋め、有毒物を散布することによって我々は今までやってきたのである。結果、生態系が変わり、幾種類もの動物や植物が地球上から姿を消した。
 「これは、ひょっとしていけないことなんじゃないの?」と最近になって(でもないだろうが)考え出す人々が現われ始めた。自然は破壊してはいけないのではないか? 我々は間違った事をしてきたのではないだろうか? 自然を破壊するのはやめよう、自然を守ろう。と反省し、行動する人々が現われてきたのである。
 ところで、自然を破壊することは、何が「いけないこと」なのだろうか。
 自然を守ろうとしている人々の言い分に「自然を破壊すると、やがて人間に返ってくる。自然のしっぺ返しを食うぞ」というものがある。空論だ。これは、「あのおじさんが怒るからやめなさい」とか「憲法で禁止されているから、軍事行動は行なわない」と言っているのと同様、愚かなご都合論と言わなくてはならない。自然を破壊すること、電車内ではしゃぐこと、戦争をすることの何が悪なのか、本質がまるで説かれていない。だから、誰も見てなければいいや、とか、では憲法を改正しよう、と言いだす子供や大人ができあがるのである。人間に返ってこなければ、しっぺ返しを食らわなければ、自然に対して何をしてもいいとでも言うのだろうか。
 人間に危害が及ばなければ、自然は破壊してよいのか。では、逆に人間に危害を加える自然は破壊しなくてはならないのか。結局彼らも人間を中心に考えているのである。人間のための自然保護であり、彼らもしっぺ返しに会いたくない=人間を滅ぼしたくないのである。畑を荒らすほど増えてしまったニホンカモシカや、オオカミのような害獣や、ゴキブリのような害虫は破壊(殺戮)されてもいいことになっている。クジラだって、トキだって人間様を守るためならば、徹底的に破壊しつくされるだろう。
 となると、自然を破壊することがいけない本当の理由は何なのか。今のところ、明確な答えは提示されていない。

3.生命の目的

 さて、自然は守る必要があるのだろうか。しっぺ返しは受けるのだろうか。
 自然の最も大いなる恵みは、我々に食料を与えてくれることである。逆に最も大いなる脅威は災害である。しっぺ返しとはすなわち、自然が食料の供給をやめ、災害をもたらすということなのだろう。
 しかし人間は、栽培や治水・護岸などの人工の手段を持っている。衣も食も住も自ら作り出せる世の中で、何を自然から得ようと言うのか。自然から恵んでもらう必要もないし、自然を恐れる必要もないはずである。そうとも、この科学の時代に自然なぞのどこが脅威なのだろうか。いや、仮に脅威なのだとすれば、それは人間の科学がまだまだあまいのだ。宇宙にたかだか数人運び上げた程度で科学の進歩を誇っていてはダメなのである。科学の究極の目的は完全に自然を支配すること、全く自然がなくなっても人間が生きていける社会を作ることにある。
 洪水におびえて生きるのではなく、洪水を起こさせないようにするのだ。植林などではなまぬる過ぎる。川に変わる給水機関を作るのだ。ゆくゆくは雨さえも制御しなくてはならないだろう。自然に頼るな。水は自分で作れ! もちろん酸素もだ。
 人間が生きる最大の目的は、人間が生きることだ。
 これは重要である。人間に課せられた至上命令は、人類としての種を絶やすな、ということである。人間だけではない。すべての生命はその種を保存するために生きている。そのためには、どんな手段でも取らなくてはならない。他の生命を犠牲にしてもだ。
 種を保存するためならば、種の増加=繁栄を抑制することだって行なう。そうして、ほとんどの種は、他の種とのバランスを保ちながら、自らの種を保存する道をとってきた。ちなみに「進化」は、どうにもならなくなった時の最後の手段だ。この場合「種」そのものではなく、「種の記憶(遺伝子)」を保存することが目的となっている。
 人間もその草創期には自然と共存していたはずだ。しかし、その後人間は共存の道を捨てたのだ。「栽培」という自らが自らの食料を作り出す手段を得て、自らの増加を抑制する必要もなくなった。それに、ここまで人間が増えてしまった以上、そして今後も増え続ける以上、もはや共存の道には戻れない。
 ところで、最近人口増加が問題になっている。何が問題なのかというと、主に食料と住居の不足である。地球の大きさ対して、人間の数は多くなり過ぎてしまったのだろうか? いや、まだまだ地球上には人間が生きていくために無駄となっている土地が多い。実に多い。具体的には、森や、山や、川や、海や、砂漠などである。増え続ける人口に対応するため、木々を倒し、山を削り、海を埋め、家を建て、野菜を植え、家畜を育てるのだ。それしか人類の生き残る道はない。
 1本の木を守ることと1人の子供を救うことと、どちらが重要かを考えてみればよい。それが、生命の本能なのだ。許せ、人間以外の自然諸君よ。それが、広義の意味での自然の摂理なのだ。
 また、今後は「宇宙」も魅力的な生存場所になる。来るべき宇宙時代に我々は備えなければならない。あまったれていてはいけないのだ。宇宙にはクジラもいないし、泳げる川もないし、木登りのできる木もない。すべて人工の世界なのだ(地球外生命等の存否はこの際おく)。

4.結論として

 そろそろ、結論付けてもいいのではないだろうか。
 破壊というと少し乱暴に過ぎるかも知れないが、我々人間は、人間が生きていくために、積極的に自然を支配し、作り変えていくしかない。自然を守ってなんかいたりしたら人類は滅びてしまうだろう。
 今こそ目を覚まそう、子孫の幸せのために。手を取り合って自然を破壊しつくすのだ。

参考文献

 新選国語辞典 新版第二十二刷 (小学館)



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