加藤法之
「変身 トゥ!」
かけ声と共に飛び上がり、一瞬のうちにその姿を変えたかと思うと、危険な目に遭っている人々の元に颯爽と姿を現して、敢然と悪に立ち向かう。子供らはその格好良さに目を奪われ、その強さに童心を熱くする。
そう、これら等身大ヒーローは、強い、とにかく強い。どのくらい強いかというと、笑い上戸の某ヒーローの形容を使えば、とにかくもう”絶対に強い”のである。
しかしどうしたものか、私は昔から、こうした決定論のように確固とした一連の流れの中に、それこそ決定論中のゆらぎのようにふと、ささやかな疑問を湧かせてしまうのだ。
そう、彼らは強い。だが、何故変身しなければ強くならないのか。
隆々とした筋肉を持ち、素早い身のこなしで次々と単色発声の戦闘員達を打ち倒していく正義のお兄さん。彼らはそれほど強いのに、上半身かぶり物に黒タイツという”怪人”(ひと目で怪しい人のこと。変人。{真説国語辞典、全田一狂助編著、柵書店})相手には、からっきし弱くなってしまう。しかしそのくせ、変身した後のヒーローは、前述の通りとても強い。
巨大化する別派のヒーロー氏達とは違い、彼らは変身する前と後で、外見が変わった以外に甚だしい変化はない。体型的にも、筋肉が突然数倍にもなっているという風には見えない。(近年逆輸入された米産記録映像の5人タッグヒーロー達は、変身前のアメリカンな若者の方がよほど強そうに見える。)
と、この様に考を進めてくると、変身ヒーローの強さの本質とは、本当は変身後の姿とは別の所にあるのではないかという気がしてくるのである。
というわけで、以降提示された疑問を解きあかしていくことになるわけであるが、読者にはここで少し寄り道をしてもらい、私に起こったある出来事をかい摘んで紹介しなければならない。というのも、この体験こそが、私に上記疑問の答えを見いだすきっかけとなった事件だったからである。
とある平和な日曜の昼下がりのことだ。私は自宅でくつろぎながら、先程まで見ていたNHKのど自慢の鐘一つおやじの悔しげな顔について、思い出し笑いなどしていた。そこへ、突然訪問者がやってきた。かつてのクラスメートであった。久しぶりだからちょっと食事でも食べに行かないかという。元々選挙前に電話があるくらいの仲だったので少し躊躇ったが、壷を隠し持っているようでもなかったので軽い気持ちで同意して、彼の車に同乗した。
ファミレスでひとしきり通過儀礼的な会話を交わして、さぁ店を出ようかというときになって、彼はいいところを知っているので少し寄っていこうと言う。レジの横でかねてから欲しかったミニテトリスを見つけたことで少しハイになっていた私は、そんな彼の提案にも特に疑念なく意に添うことにしたのだ。
二十分ほど乗って後だったろうか、さる場所の狭い駐車場に車を止めて、彼はさっさと先に行ってしまう。右も左も分からぬ所で置いて行かれては大変と、私は小走りで追いかけたが、そうして彼が勝手に入っていった建物には、SDIだかDDTだかHIVだか、とにかく英文字3文字の名のついた研究所なる看板が掲げてあった。
彼は外資系の会社に入ったのだろうかと思って入っていくと、廊下ですれ違う人々からはことごとく体育会系の挨拶をされた。そうして彼についてある部屋の中に入ると、さぁこれを着てこれを持ってなど四方八方から指示が飛ぶ。言われるままにあれよあれよと従っていくうち、私は隣の大部屋に連れられていた。
そこで私はハタと我に返ると、自分がいつの間にか全身を頭からすっぽり黒装束に身を固め、手には火のついた長い蝋燭を持たされているではないか。
ハッ。私は何をやっているんだ。
周りの人間も同じ様な格好をしている。ここに至って何かおかしいと思った私は、友人らしき人物に声をかける(黒頭巾をかぶっているので分からないのだ)や、持病の夜尿症が疼くからと上手くごまかしてその場から離れた。
影でこっそり見ることができた彼らの奇態はまさに驚くべき物であった。まず、二人一組でお互いに向き合って突然叫声を発しだした。声を限りに叫ぶさまは、竜虎が互いに張り合っているように見えた。それが済むと次に、十人程で輪になって、その中心に一人を配し、周りの全員でその男を誹謗中傷しだした。当然、中心の男はいくらもしないうちにうわ〜んと泣きながらどこかに行ってしまった(彼がどうなったか私には知る由もない)のだが、それを見ながら周囲の者達は万歳をしてまた叫ぶ。そしておもむろに黒頭巾を取るや、近くにいる者達と誰彼構わず抱き合って涙を流して喜び合ったのである。どうも自分達の掲げた目標の達成を喜んでいるようなのだが、髭の濃い者や顔のでかい(私も人の事は言えんが)者同士が感涙に咽ぶその行為は、梶原一騎作,川崎のぼる画の漫画以上に暑苦しく、内から湧いてくるえも言われぬ感情に私は居たたまれなくなって、たまらずその場を後にしたのである。
私はその足で建物を出たのだが、慌てた様子で友人が追いかけてきた。忘れ物を届けに来てくれたのかと立ち止まると、彼はいきなり私を指さして大声で、「君の生き方は間違っている。」「そんな人生じゃ楽しい筈がない。」「君は自分に自信を持っていない。」とまくし立ててきた。
私は彼に言われるまで、自分の生き方が間違っていることや、自分に自信を持っていないことに気付かなかったので、そうだったのかと感心してしまった。
彼はなおも食い下がって私に建物の中に戻るように喚く。君もあそこで矯正すれば私のように素晴らしい人生を過ごせるようになるというのだ。
しかし、自分が知らなかったことを教えてもらって、それを更にわざわざ直すというのも何だか変だと思ったので、「もう新○党は支持しない。」と言って帰ってきてしまった。
それが効いたのか、彼はそれ以上もう追ってこなかった。だが私にも、最寄りの駅まで数時間かかって辿り着かねばならなかったという試練が残ったのだった。
少し長い紹介だったが、以上が私の身に起きた事件の全てである。後から調べてみると、この友人の連れていってくれたのは、一般の人々に活力を与える目的で様々なサイコセラピーを行う、いわゆる思想改造の場であることが分かった。
学生時代の友人の性格を知っている私にとっては、その効果は非常に明確に読み取ることができた。それは例えば、高倉健のように寡黙な人がヒトラーのように雄弁になってしまったと言えば分かり易いであろう。
これほど変わる物なのか。私はあまりの衝撃に、感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。これはもう変身だ。
そしてそう思ったとき、前節で提示した疑問は、私の中でみるみる氷解していったのである。
人間とは、普段持っている力の他に、いわゆる潜在した力というのを持っている。研究によってまちまちだが、それは普段の数倍から数十倍。中には無限大などという無責任な数値をはじき出す人すらいる(参考文献”聖塗士(ペイント)聖矢”東田正美他)。
そういった力はしかし、普通に発揮されることはまずない。それは火事場での怪力などに希にみられるだけである他は、精神による制御で出しうる程度だ。
が、実のところ後者の方法は曲者だ。ヨガや密教の小難しい教義と、滝に打たれ断食をするなどの高い敷居で乗り越える方法もあるにはあるが、意外なほど簡単な方法で出来てしまうこともあるからである。それはすなわち”強いという思いこみ”である。
思いこみというのは強い。世界記録を出すスポーツ選手が、殆ど例外無く自己暗示をかけるのは良く知られているし、受験シーズンの学生の集中力の源泉も、ここから来ていると思われる。その力には限界がない。思いこみさえあれば、湖の水を飲み干すことだって出来るし、二割に満たなくても四番バッターを要求したりすることだってできるのだ。
ここに至って本論の疑問に答え得るだけの前提は提示した。
等身大ヒーローが変身後に強くなるのは何故か。
気のせい。というのが私の出した結論である。
いや、私はなにも、彼らが弱いと言っているのではない。そうではなくて、変身前と比べて彼の持っている強さの絶対値は変わらないと言っているのだ。彼らは変身する前から元々強いのだが、それだけの力を普段は出さないだけなのだ。
しかしそうは言っても実際に、あれだけの力の差があるではないか。
では、変身前後で何が違うのか。彼らの何が変わるのか。
”思いこみ”を如何に行うか、これがその謎を解く鍵だ。自己暗示を掛けるのもいいだろう。お守りを身につけるのもいいだろう。だがもっと確実な方法がある。自分がまるで違う者になったかの様に錯覚させるにこれ以上ないという方法。
それが、仮面を被ること、すなわち、変身なのである。
このように論を進めてくると、当然今度は彼らヒーローを造り上げた側、すなわちヒーローと対峙する悪の秘密結社は、それを変身をどう考えていたかが気になってくる。そして実際、彼らはその辺の所を熟知していた節がある。
彼らはヒーローの青年に対し改造手術を施すのであるが、そんな大手術をする割には、被験者に麻酔は掛けないし、彼らの儀式はことごとく大仰に様式化しているのだ。これは正に、被験者に改造という行為を見せていると考えると辻褄が合う。つまりこれは改造される側の人間に、俺ってひょっとしてもの凄い事されるんじゃないのか、という不安感を与える行為と考えられるのだ。(これに堪えられなかった者が戦闘員であろう。可哀想に、精神をやられた彼らは自ら、「キー!」と言っている。)つまり彼らの手術は電気ノコギリとか10tハンマーとか、スプラッタに切り刻まれそうな道具はあれど、本当にそれらを使って手術を行うわけではなく、身体の一部分に変身用のスーツとかをコンパクトに装着する(ベルトなどが好例か。)だけだろうと推察することが出来る。そもそもイカの手やカニの足をつけた医者ではメスを握れないだろう。
それ程の手術を経て作られたもう一つの身体、変身後の彼の姿が、弱い筈がない。少なくともヒーローである彼には、そう感じられるであろう。そうなったら、彼にはもう怖い者なしだ。喰い逃げだって交通違反だって好き放題、彼を止められる者などいやしない。仮面を付けているんだからバレやしないさ。(サナギマンは弱いが、「俺にはまだまだ切り札があるさ。」という余裕が、彼をして油断させているのかもしれない。)
この、悪の秘密結社実は思想改造しているだけ大手術仮説が事実であることは、前述の私の体験談と比較することで明確になる。
前述の組織とこの秘密結社が似ていることは、儀式の派手さから、勧誘の強引さ、単一の思想に改造しようとしている所など、隅々までそっくりである。改造されちゃった人間が、自分を絶対の正義だと言ってはばからない点も似ている。きっと祖先は始祖鳥辺りで一つになっているのであろう。何よりも私には、彼らの本部にいた間、彼らの崇拝するオブジェが、恐怖のあまり横を向いた鷲に見えたのである。
そして前述の組織の目的が思想改造にあるならば、大手術仮説が正しいことが証明されるのである。
駅裏あるいは閑静な住宅街にふっと存在するこうした身近な団体に裏付けがある以上、私の論理に反駁するなどもはや不可能だ。
ヒーローの変身は上辺だけのもので、彼らはいつも実力で闘っていたのである。
余談になるが、こうした思いこみの効果を、悪の秘密結社が評価していたことを示すもう一つの証拠がある。
怪人達が、ヒーローが変身しないうちに倒そうとしている態度が、それである。
ヒーローたる青年を、怪人達はあの手この手で倒そうとするのであるが、ヒーローを虐待する様子が執拗であればあるほど、裏を返せば彼らが変身後のヒーローがどれほど強くなるかを充分認識していたことを示すものであり、畢竟それは皮肉にも、自分達が掛けた思いこませがいかに完璧で、そして敵に回せば恐ろしいものであるかを彼ら自身が知っていたことを示すのである。
その結果、うわぁ変身しちまった、もうかなわねぇや。となるのである。
だから彼らは無駄と知りつつも、煙突の上で格好つけているヒーローに向かって「何者だ!」と問うのである。それは、ひょっとしたらあいつじゃなかったらいいなぁ、という空しい期待から発せられた問いなのだ。
変身以降の彼らの闘いは、見ての通りである。それまでの何とかかんとか作戦と銘打った、曲がりなりにも理知的な作戦は一気になりを潜め、ジャイアンに挑むのび太のように闇雲に突っ込んでいくだけの大味なものとなってしまうのだ。
逃げ回る怪人に、今日も正義の鉄槌が降る。
あぁ。ただ一蹴りに消ゆる我が身の儚さよ...。
最後に、この論で浮上してくるであろう二つの疑問にお答えせねばなるまい。
まず、このように周到な思想改造の出来る秘密結社が何故ヒーローに寝返られ、最後には叩かれてしまうのかについてだ。それは彼らがいつも、ヒーローを改造したのが自分達であることを明言してはばからなかったから、恨みを買ってしまったためである。(仮面ライダー1号と2号はV3を改造しておきながら、怒りの矛先をデストロンに向けさせることでこれを回避している。)悪を貫き通す一途さが、彼らにとって致命的だったと言えるだろう。
そしてもう一つ。人間を単一の思想に改造して世間に輩出するのが彼ら秘密結社の野望であるという考えは、あまりにも個性的な怪人達を毎週送り出している彼らの実際に合わないのではないかとの意見が、当然あるだろう。しかし思い出していただきたい。読者諸君も多く見ていた筈の記録映像の中で、人間が改造される場面を克明に映し出していたのは、ヒーローである青年の時だけではなかったろうか。(少なくとも他の場面を寡聞にして私は知らない。)ということは、彼ら個性的な怪人達は、秘密結社に改造されたわけではないことになる。ではその存在は何なのか、答えは簡単、彼らはあくまで”怪人”、”怪しい人”なのである。つまり、改造人間ではないのである。
では両者のどこがどう違うのか、これも簡単、我々は”怪しい人”を目にすると逃げるではないか、”改造人間(等身大ヒーロー達)”を見ても逃げないのに...。
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