国語とワープロ

ひあろ



0.序

 最近では、私も含めて、ワープロで文章を書く人が増えてきた。
 また、平成5年度からは、学校教育でコンピューター(情報処理)の授業も始まっている。しかし、あくまでも、コンピューターとしての教育のみで、コンピューターが他の学科に及ぼす影響については、あまり考慮されていないようである。
 ところで、先日テレビでこの情報処理の授業風景をやっているのを見た。たまたまだろうが、ワープロの使い方の学習をしていた。もはや、今後は文章を書くにおいてワープロが手放せないものになっていくのだろう。
 本稿では、ワープロの普及が国語に及ぼす影響を考え、国語教育のあり方への提言ができればと思う。

1.印刷物とワープロ

 ワープロ(コンピューター)は、学校で学科として導入されるよりも前から、一般の人、特にビジネス分野で使われていた。
 つまり、現在ワープロを使っている人達は、学校教育として、ワープロの授業を受けていない人達である。だからと言ってワープロが使えないとか使い方が間違っているとかいう訳ではないが、現実問題として起こっている問題を検証してみたい。
 ここでは、ワープロが使われている例として、印刷分野について取り上げる。
 最先端の印刷の世界では、著者−編集者−印刷所を電話回線(または専用回線)で結び、著者が入力した文章を、パソコン(ワープロ)通信で入稿し、編集者がパソコン上で割り付け(レイアウト)を行ない、印刷所に通信で送り、製版フィルムに直接出力し、印刷する、ということが行なわれている。実際には、そこまでいっているところはまだまだ少ないだろうが、かなりの部分で電子化されていることは確かである。
 文章を電子化することの便利なところは、紙に書くことに比べ、修正加筆校正編集などが、格段に容易なことだ。特に何度も文章を練り直したりする著者にとって、この恩恵は大きい。また、パソコン通信を使って原稿を入稿すれば、郵送に比べて時間の節約にもなり、その他、保存しやすいとか再販が容易とか、編集者側から見ても利点は大きい。
 一方、我々読者にとっては、途中の過程がどう変わろうと、最終的に印刷されたもの(本など)に変わりがあるわけではないように思える。ところが、従来の印刷物に比べ、微妙ではあるが違いが生じてきた。
 それは、誤植(文字の間違い)についてである。
 その前に、ご存じでない方もいる思うので、印刷の歴史を簡単に記しておく。
 近代印刷は、有名なグーテンベルグによる(金属)活字の発明によって始まった。それ以前にも、版画の手法はあったが、安く、早く、大量に印刷することができるようになったのは、活字のおかげである。活字は、金属製の、一文字ずつバラバラになった文字(字母と言う)を作り、それを文章になるように並べて(これを植字と言う)、インクをつけて印刷する。版画や書写に比べればはるかに簡単とはいえ、一冊の本を作るのには大変な労力を必要する。
 次に登場したのが「写植」である。写植は「写真植字」の略である。その名の通り、写真の要領で、フィルム状になった字母(ネガにあたる)の中から目的の文字を拾い印画紙に焼き付けていく(焼き増しにあたるだろう)。
 活字の場合は1万文字の書物を作るためには1万個の字母が必要となる。同じ文字が何回出てくるかも不定のため、大量の字母ストックがなければならない。これに対し、写植では、文字数に関係なく、全ての文字を網羅した1セットがあればよい(必要なだけ焼き増しすればよいのだから)。また、焼き付ける際にレンズを通して拡大したり変形したりできるので、表現の自由度も格段に広がっている。
 そして、最後にワープロ(電子出版)の登場となる。これは、すべて電子的に処理するため、もう以前のような物理的な字母は全く必要ない。植字(という概念すらなくなったが)の機械を、1人1台持つことが可能なのだ(持ち運ぶことすらできる)。
 さて、誤植と言うのは、その文字通り誤って植字することである。良く似た文字を間違えたり、位置を間違えたり、文字抜け、文字の大きさや書体を間違えることなども含まれる。
 活字時代の最も「らしい」誤植は文字の倒置である。文字が横向きになっていたり、上下逆さまになってしまうやつである。昔の新聞などでは、たまに見かけられた。
 写植の場合は、機械的に印字方向が決まっているので、文字が倒置することはまずない。その代わり、間違えて印字してしまったところは、別紙に正しく印字したものを用意して、切り貼りしなくてはならず、切り貼りした部分がずれていることがよくある。
 そして、ワープロの場合は「変換ミス」である。
 ワープロは、文章を入力する際に、入力したい文字の「読み」を入力して、漢字に変換するという方法をとっている。例えば、キーボードから「かんじ」と入力して、「変換キー」を押すとワープロ(コンピューター)が判断して「漢字」という漢字に置き換える(変換する)のである。
 ところが、日本語は同音異義語が異様に多い。そのため、「かんじ」を間違って「幹事」と変換してしまうこともありうるワケだ。こんなとき、ワープロは同じ「読み」の漢字または熟語を候補としていくつか提示してくる。人間はその中から、正しいものを選ばなくてはならない。ここで、間違ったものをうっかり選んでしまうのが「変換ミス」である。
 また、最初の「読み」の入力にしても、「かな」を直接入力する方式と「ローマ字」で入力する方式がある。「かな」入力は、「かんじ」ならば、「か」とか「ん」とか書かれたキーを押して「かんじ」と入力するもので、「ローマ字」入力は、アルファベットが書かれたキーから「KANJI」と入力し、コンピューターが判断して「かんじ」という「読み」に変換するものである。どちらが良いかということは一概には言えず、現実にどちらも使われている。ただし「ローマ字」入力では、「ローマ字」→「かな」→「漢字」と二重の変換が必要となるため、変換ミスの入り込む余地が増えることになる。
 最近の印刷物では、この変換ミスによる誤植が大変多い。みっともない程多い。
 また、先に述べたように、加工修正があまりに簡単にできるため、その段階でのミスと思われる誤植も目立つ。例えば、一行まるまる抜けていたり、同じ文が意味を無視して2回それも連続で現われたりなど。
 これらの誤植は、一つは原稿を読み直して間違いを直す(これを校正と言う)人間の責任でもあるが、書く人の責任も多分にある。
 恐らく、文章を「読み」で作成していく訓練ができていないからであろう。また、コンピューターが変換した漢字を正しいものとして疑うことなく進めてしまう様なところがあるようにも思える。
 それにしても、「読み」に対して、ワープロが提示した漢字候補の中から、文章の意味として正しい漢字を選ぶことがなんと難しいことか。ワープロ特有の誤植「変換ミス」は、この日本人が初めて味わった文章作成方法に対するとまどいの結果としてみることができるだろう。
 しかし、甘えてはいけない。ワープロがそういう機械である以上、その性格を理解し十分に気をつけて執筆する必要があるだろう。

2.学校教育とワープロ

 さて、前項では現状におけるワープロの問題点(正確には、ワープロを使う我々の問題点)をみた。
 しかし、これからの世代は違う。なにしろ、学校でパソコンやワープロを習うのである。
 すると、教える側も変わらなくてはならない。特に、漢字の指導の仕方は大きく変わるはずである。
 なぜなら、漢字の書き方書き順は重要でなくなるから。より重要なのは「読み」であることはお分かりいただけることと思う。「読み」に対して「正しい漢字」を確実に選ぶ訓練が必要になるのである。
 もちろん、手で書く必要がなくなるのだから、漢字のテストの様子も変わってくる。
 漢字の読み方を問うのは変わらないとして、書き取りテストや漢字のハネやハライなど書くことに関する問題は姿を消すだろう。文章の意味から考えて、正しい漢字を選ぶこと、また、間違った漢字を見つけることが重要になってくる。
 とかく、日本人は論理的な文章が苦手だと言われる。そのような訓練(教育)を受けていないのだから、しかたがないといえばしかたがないのだが、その原因の一つに、漢字を覚えるのに多くの時間と労力がさかれてしまうということがあると言われている。  今後も漢字の学習そのものは継続されるだろうが、ワープロは漢字学習の「読み」「書き」「意味」のうち、最も難しい「書き」を省略できる可能性を持っている。「書き」学習の省略によって、空いた時間を文章の構成や、意味、内容の学習に割り当てることができるようになるだろう。
 また、漢字(日本語)を学ぶ外国人にとっても福音となるかもしれない。
 ところで、このような学習は、良い面ばかりあるとは限らない。
 書かなくてもよいということは、書けなくてもよいということにつながる。はたして、日本人として、漢字が書けなくなってもいいのだろうか。手元にワープロがない時に、正確な文章が書けるだろうか。難しい問題だが、考えてみれば時代はどんどん変わっているのである。私たちの社会も生活も、新しいものが生まれ、必要のないものは消えていく。例えば、昔ならば「そろばん」の学習はよほど重要であっただろうが、今やその重要性は薄れるばかりである。しかし逆に電卓のようなものが普及したからと言って、加減乗除のような基本計算能力は小学校の算数学習の主要部分を占めている。要するに、時代によって必要な能力は異なるのである。漢字を書くことが、今後どの程度の重要性を保つことができるかは分からないが、ひょっとしたら、まったく必要のない時代が来ないとは言い切れないであろう。
 現実的に考えれば、しばらくは漢字を書く能力は必要となりそうである。しかし、本稿においてより重要なことは、漢字を書く能力の是非ではなく、ワープロの(圧倒的な)普及への対応である。
 漢字を書く能力は重視するとして、例えば、その時間を減らしその分ワープロの学習に当てるとか、漢字を書く学習は小学校のうちだけにとどめるとか、あるいは高校の文系クラスとか大学の文学部などで学ぶようにしてはどうだろうか。
 さきほどの四則演算にしても、高校によっては、テストでさえ電卓の持込みを認めているところがある。要するに、このような高校やまた大学では、演算能力よりも、答を導き出すための数学的能力(とでも言えばいいのだろうか)を重要視しているのである。  さて、ワープロを使うようになると、もう一つ困った事態が起こる。漢字への変換が「変換キー」を押すだけで、あまりに簡単に行なえるため、異様に難しい漢字や、普段は使わないような漢字を使いたがる連中が現われてくる。実際に現われている。
 例として、私が最近気になっている言い回しに「何々する毎に」というときのこの「毎」の字がある。普段の生活のなかで「ごと」は「毎」の字だろうか? 意味的には、「毎日」は「日ごと」だし、「毎回」は「一回ごと」だから正しい。しかし、この例に見るように「毎」は「まい」ではないだろうか? 「毎」をすんなり「ごと」と読めるだろうか? すんなり読めなかったと仮定して、意味が分かりやすいだろうか? そして、「ごと」と書くことによる何か弊害があるだろうか?
 手書きで、「ごと」を「毎」と書くとはあまり思われないので、ワープロ使用者が、好んで、あるいは気が付かずに使っているのだろう。参考までに「ごと」は日本政府が定めた(内閣告示)「当用漢字音訓表」には無い。他にも「ぶり」を「鰤」と書いてみたり、「てんてこまい」をわざわざ「天手古舞」と書くことによって、利点よりも、たとえ一瞬でも読めないこと、ひいては意味が分からないことへの欠点の方が多いのではないだろうか。
 むろん、これらは、ワープロと関係なく使う人は使うし、詩や、あるジャンルの小説など、視覚的効果をねらう場合にはそれもいいだろう。しかし、ワープロの普及によって、普通の文章(と言っても難しいが、例えば作文や報告書など。また雑誌記事など、多くの人が「読む」ことを前提としたもの)でもこのような漢字を使う人が増えるのは避けてもらいたいところである。
 この対策として、また学校で習っていない漢字までも変換されてしまうことの対策として、漢字に学年別の属性を付けるというのはどうだろう。例えば6年生用漢字は、1年生が変換キーを押しても、漢字に変換せず、ひらがなのままとなるように。
 他にも、新聞用、一般用、プロ用、総漢字などに分けて使えば、例えば、一般の人が、「どこ」を、気取って「何処」などと書くようなことも減るだろう。
 恐らく、これらはほんの一例にすぎないハズだ。国は、ワープロの普及に伴う、国語への影響、問題点を洗い出し、ワープロ時代の国語教育を本気で考えてもらいたい。

3.これからの日本語

 現在日本語は易しくなる傾向にある。
 具体的には、昭和21年の当用漢字、昭和56年の常用漢字の制定などによって、漢字の数や、字画、読み方などが減ったことに直接の原因がある。そればかりでなく、実際に、平仮名の使用度が増えているし、難しい言い回しや昔の言葉は消えつつある。逆に新しい言葉が出てきて意味が分からないといった現象も起きているが。
 これら表現上のことだけでなく、内容的にもそうかと言われると、ちょっと自信はないが、私は易しくなっていると思う。
 多分世の中全体が易しくなっているのだろう(軟弱化していると言ってもよい)。以前に誰かがどこかで書いていたが、哲学の時代が終わり、ノリの時代に入っているのかも知れない。
 あなたが、そのことを好もうが、嫌おうが、とにかくそういう傾向にあるんだからしかたがない。
 私は良い傾向だと思っている。
 内容はともかく、表現の平易化は、その文章(著者にとっては自分の意見など)がより多くの人に読まれ、理解してもらえる機会が増えることになるからだ。「若者の活字離れ」などと言われて久しいが、若者は難しいことが嫌いだ(苦手だ)。その手の若者も含めて、より多くの人に読んでもらおうと思ったら、平易な文章にした方が良いだろうし、読む側も、理解がしやすい(幼稚にしろと言っている訳ではない)。
 それに、現代のような超情報化社会においては、情報を多く集め、またすばやく分析することが重要だ。そのためには、やはり必要なことを簡潔に分かりやすくまとめた文章の方がより有効であると言えるだろう。
 ワープロは、意外にもこの傾向に水をさすものだ。
 理由として、一つは先程述べたように、難しい漢字を使う人が増えること。もう一つは、文章を書く人が増えること。これは、書く人が職業ライターでなく(要するに素人)で、しかも作った文章を簡単にしかも不特定多数の人の目に触れるような形で発表できるようになるためである。最も身近な例は、今私が書いているこの文章だ。他の例では、詳しくは触れないが「パソコン通信」がある。私も含めて素人が書いた文章はできが悪いことが多い。できが悪い文章は難解なことが多い。本当は文章のでき具合いよりも、素人は、難しい漢字や難しい言い回し、自分勝手な表現をしがちであることが問題なのだが。
 そうならないためにも、国語教育にがんばってもらいたいのである。
 それとも、今後は難解方向へ時代が向かっていくのだろうか。

4.最後に

 実際のところ、私のような素人が思い付きのようなことを言い出すまでもなく、言語学者達の間では、ワープロが日本語に及ぼす影響などが、すでに研究、議論されているらしい。
 それはそれとして、一般的には、まだこの問題についてあまり問題視されていないようなので、今もワープロを使ってこれを書いている私自身の意見として、本稿を書かせていただいた。多少大げさな書き方がしてあるところもあるが、ご容赦願いたい。
 こういうことは、上から決められるべきではなく、私たち一人一人が、考えていかなくてはならないことである。本稿が、みなさんにワープロについて少しでも考えるきっかけを与えることができれば幸いである。



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