「タイムトラベルはつまらない。」のは何故か?

水田徹



1.序

 タイムトラベルは可能なのか。この問題は古くから議論されてきた。しかし、可能か否かを論じる以前に、私はある理由からタイムトラベルの可能性ではなくタイムトラベルそのものに否定的な立場をとらざるを得ない。何故なら、タイムトラベルはつまらないからである。一般にタイムトラベルの可能性については2つの視点から議論されている。すなわち、理論的もしくは技術的に可能を検証する視点と、タイムトラベルを行うことが引き起こすであろう矛盾点を検証することによる背理法的な視点とである。ここでは後者の視点を借りつつ、何故、タイムトラベルがつまらないのかについて述べたいと思う。


2.コールドスリープはタイムトラベルなのか?

 タイムトラベルを実践するために理論的にかなり保証された方法としては、ウラシマ効果(光速に近いスピードで移動している物体は静止している物体より時間の進み方が遅いために起こる)による方法が挙げられる。また、コールドスリープによる方法なども考えられる。この方法はタイムトラベルする者の体を極めて低温にすることにより、時間に対する状態の変化を周囲に比べて著しく遅らせることにより相対的に時間の流れを遅くして(もしくは止めて)未来へいく方法である。しかし、現実的であるかどうかはともかくとして、私はこれらをタイムトラベルと呼ぶのはちょっとどうかなと考えるのである。
 石ころを外界からの影響を極力排除した状態で厳重に保管し、五万年もたったとしよう。石ころは、人間をコールドスリープさせた場合と同様、保管後も保管前とほぼ同じ状態にあると言えるだろう。だがこれを、石ころにとってのタイムトラベルと呼ぶことが出来るのだろうか。道端に転がっている石の中にだって、五万年とまでは行かなくても数百年は同じ姿を保っているものもたくさんあるであろう。しかし、それらをタイムトラベルしてきた石とは呼べない。
 これが石ころでなく、人間をコールドスリープさせたとしても内容的に変わりはないはずである。ただ石ころの方が人間に比べて朽ち果てるのに時間がかかるというだけである。石ころは数百年間以上同じ姿を保っていられるが、人間はそのままでは百年程度で朽ち果ててしまう。人間や石ころをコールドスリープ的手法により五万年間保存した場合、同じ五万年の間、時間軸上に存在しているのに人間なら時間を旅していて、石ころはそうでないというのは、やはり変である。確かに主観的にはタイムトラベルをしているのであるが、タイムトラベルというのは別に意識の有無や朽ち易さによって変わるものではないと思われる。


3.空間と時間

 我々は3次元の空間と1次元の時間の中に存在している。特殊相対性理論ではこれら4つの次元は対等であり、我々は4次元の時空間の中に存在していると説明されている。確かに数式の上では、



と表現され4つの次元は幾何学的に対等なのだが、我々の感覚においてこれら4つが等しいわけではない。空間と時間を等しく感じないばかりでなく、空間の3つの軸でさえ等しくは感じていないのである。例えば我々は空間が左右(X)・前後(Y)・上下(Z)の3つの軸で構成されていることを知っているが、地球上には重力があるためにZ軸方向に対してはX・Y軸方向のように自由に移動できないという事実がある。そのためにZ軸方向に対する感覚もX・Y軸方向に対するそれとは異質なものとなっている。平地で50m離れていても大したことないが、50m下を見下ろす、もしくは50m上を見上げるとしたらその距離感はかなりのものであろう。
 このように我々にとって(主観的には)空間は、運動能力においても感覚においてもZ軸方向に著しく縮められた、擬2次元とでもいうべきものになっている。これは我々の活動の場、すなわち地球の周が4万kmほどもあるのに対して地上でもっとも高いエベレストの高さが9km弱で、大気圏ですら数百kmであることからも容易に想像できる。無論これはマクロスケールでの話であって、ミクロスケール(人体もしくはそれ以下のサイズ程度のレベル)においてはほぼ3つの軸は対等である。
 3つの方向軸ですら対等であるとみなしていないのだから、空間軸と時間軸を対等に考えている訳がない。時間軸を我々が空間の3つの方向軸と対等に考えていなかったことは、特殊相対性理論という「理論」以前にはそのような認識すらなかったことからも明白である。時間という軸が存在すると考えていたかも怪しいものである。


4.時間の流れ

 では、理論的には対等である4つの次元を、我々が主観的には違ったものとみなしているのは何故か。
 空間・時間等の軸方向に対して、我々の関与できるレベルというものを想定すると、把握・知覚・制御の3つの段階がある。ここで把握とは軸方向の広がりの概念を実感できること、知覚とは軸方向の情報を入手できること、制御とは軸方向に自由に移動できることをそれぞれ指す。そして我々は、これらの関与可能レベルが等しい軸同士を対等の軸とみなし、そうでないものは対等でないとみなしている訳である。
 我々は、上下も左右も前後も、どの方向もその方向があると実感できるし、見ることもできるし、ものを自由に動かすこともできる。しかし、時間については過去・現在・未来と時が流れているのは実感できても未来を見ることはできないし(過去は間接的に見ることができるが)、時をかける少女になることもできない。つまり

我々は、3次元の空間を把握・知覚・制御できるできる
1次元の時間を把握できる
0次元の時間を把握・知覚・制御できる


という特質を持っていることになる。ちなみに空間をマクロスケールでとらえ、先述のように空間が擬2次元であるとした場合は以下のようになる。

我々は、2次元の空間(X,Y方向)を把握・知覚・制御できる
1次元の空間(Z方向)を把握・知覚できる
1次元の時間を把握できる
0次元の時間を把握・知覚・制御できる



 我々が空間と時間を別物と感じるのは、このように関与でき得るレベルが異なることによっている。我々は1次元の時間の広がりについては、その概念、つまり過去や未来があることを理解しているだけであり、空間と同じように知覚・制御が可能なのは0次元(=点)の時間すなわち現在のみなのである。空間と同じ意味では時間は、現在の、この今という瞬間しか存在していないのだ。かつて時間が空間と対等の次元であると考えられなかったのも無理はない。
 把握というのは本来知覚を伴うものであるから、軸方向に対する把握と知覚を一つにまとめてしまい、軸方向に対する関与のレベルを、可観測と可制御の2つのレベルに分けるほうが自然である。つまり

我々は、3次元の空間が可観測・可制御
0次元の時間が可観測・可制御


ということなのだが、それをわざわざ把握と知覚の2つのレベルに分けてみたのは、我々が、知覚できない1次元の時間を把握しているという事実のためである。
 1次元時間を我々が把握できるのは、本来1次元時間を知覚できているためでないことは言うまでもない。それは時間が1次元の軸方向に流れているからである。川を流れていく筏のように、我々の知覚できる現在という0次元時間が、時間軸に沿ってある「速度」で受動的に移動しているのである。この場合距離に当たるものが時間なのだから、時間軸に対して「速度」という用語を用いるのは少し変だが、とにかく我々にとっての現在が時間軸上を移動するのである。我々は1次元時間軸に対して何ら制御を行うことなく、0次元時間=現在にとどまったまま、1次元時間軸上を移動しているのである。移り変わっていく現在を知覚することにより、間接的に時間の流れ、ひいては時間の1次元の広がりを理解しているのである。


5.模範的タイムトラベルの条件

 時間軸上を動いているのだから、我々は既にタイムトラベルをしていると言えないこともない。確かにその通りではあるが、そんなことを言っても誰も納得はしまい。我々は、能動的に、自らの意志で時間軸上を進んでいる訳ではないのだから。
 我々の望んでいるタイムトラベルというのは、単に時間軸上を移動するだけでなく、我々が受動的に流されている「速度」とは異なる「速度」で時間軸上を移動するそれのはずである。(そしてそれを成し遂げることによって我々は時間というものを空間と対等に感じることが可能になる。我々が4次元の時空間に存在している、ということを実感するために必要なのは相対性理論のような「理論」ではなく、空間に対してそれが可能なように、時間を知覚・制御することなのである。)
 コールドスリープによるタイムトラベルを私が認められない理由は、この方法では時間軸上を流れる「速度」を変えることにはならないという点にある。コールドスリープにより主観的に時間の流れを変えてみても結局は同じ時間の流れの中にいるのである。
 更に重要なことは、コールドスリープでもウラシマ効果によるタイムトラベルでもそうなのだが、行けるのは未来のみで元の時代には戻れないのだ。つまり、これらは時間軸上を自由に移動するのではなく、時間軸上を流れる「速度」を加速しているだけなのである。冷静に考えれば分かることだが、そんなものは大して有り難いものではない。
 過去または未来に対して知覚・制御すること、すなわちタイムトラベルを含めた時間超越に対する最低限のニーズというものは、過去に対しては制御であり、未来に対しては知覚であると言われている。つまり過去へは行けなくては意味がないが、未来は見るだけでもいいのである。これらは過去が現在の積み重なったものであり、その現在は知覚できるものであること、時間軸上を流れていけばいずれ目的とする未来にたどり着けることからも明らかである。コールドスリープ等による方法はこれらの最低限のニーズからは外れており、タイムトラベルの主流とはなり得ないと言えよう。


6.何故タイムトラベルはつまらないか

 現在のところ、未来を観測することはとりあえず出来ないようであり、また時間軸上を制限なしに自由に移動できるようなタイムトラベルの理論も出てきていない。1次元時間軸上に対する知覚・制御のニーズが満たされる見通しは暗いようである。しかしそのような現実は無視して、タイムトラベルが出来ると仮定しよう。つまり、何らかの超能力のようなものでも良い、何らかの装置を用いても良い、とにかく時間の1次元軸上を自由に移動できると仮定するのだ。
 まず未来へ行くことを考えよう。時間軸上を進んでいく姿は時間軸上に投影される。そして時間の流れる「速度」よりも速く時間軸上を進む自分は、普通の「速度」で時間軸上を流れる外界の者から見れば時間の進みが遅くなっている。例えばタイムトラベルしている間に一歩足を踏み出すという動作をしたと想定しよう。外から見ればその動作を完了するのには、踏み出すのにかかる時間とその間にタイムトラベルによって進んだ時間の和が必要となる。つまり、100年未来へ行ったとすれば、外界からは100年かけて一歩足を踏み出す動作をしているように見えるのである。これは結局現象的には、外界に対して相対的に時間の流れを遅くするコールドスリープと変わらない。
 逆に過去へ行く場合を考えよう。今度は100年戻る間に一歩足を踏み出すのだ。これはタイムトラベルする者にとっては一歩足を踏み出す動作だが、外界にとっては開始時点はタイムトラベルする者にとっての目的時刻である100年前であるから、外界から見た場合100年かけて一歩足を戻す動作をしていることになる。
 いずれにしても、タイムトラベルをしている者は外界から見ればほとんど止まっているに等しい。その姿は間抜けだし外界に対して無防備である。とてもじゃないが快適な時間旅行という訳にはいかないし、通過できない時代も出てきてしまうであろう。
 これらを解決するために別のタイムトラベルの手法を考えよう。それはワープである。普通ワープは空間を飛び越える(例えばもっとも速い光ですら片道14万8千年かかってしまうような遠い目的地までの往復をわずか1年でしなくてはならない時など、ワープという技術は不可欠である)ために用いる。ワープはその空間の一つ上の空間次元(我々は3次元空間にいるから、この場合は4次元空間)を進んで通常の空間の2点間をショートカットするのである。
 このワープが時間に対しても出来るとするのだ。2つの異なる時刻の間を跳躍するために1つ上の時間次元、つまり2次元時間を進んでショートカットすれば1次元時間をワープ出来ることになる。これならば1次元時間軸上を移動しないから、先のような問題もなくタイムトラベルが可能だ。ここで2次元目の時間軸は1次元目の(我々が把握している)時間軸に対して直角に交わる軸である。1本の線であった時間に平面的広がりが与えられることになり、1次元の時間が無限に存在することになる。これが何を意味するかといえば、その無限にある1次元時間の1本1本がそれぞれ我々の世界のパラレルワールドであるということである。
 つまり時間をワープするということは、パラレルワールドを通って我々の存在する世界の1次元時間軸をショートカットするということになる。となると、いかに自分の住む世界では時間軸を跳躍しようとも、必ずいずれかのパラレルワールドをその軌跡に用いなければならない。そのパラレルワールドにおけるその者の姿は、先程仮定した1次元時間軸上を自由に移動する場合と同様に、止まっているように見える。結局どのような方法を仮定してもコールドスリープ的なタイムトラベルの呪縛からは逃れられないのである。それゆえ、タイムトラベルはつまらないと言わねばならないのである。



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