渡辺ヤスヒロ
人は誰も迷える子羊であるとは昔の人はよく言ったものである。人は常に何かに迷い惑わされ出口のない迷路をうろつき回っているのである。比喩表現ではなく人は街をうろつく。うろついている人の何割かが道に迷っている状態なのである。知らない街で道に迷った時の不安さは、即ち未来の見えない人生そのものを改めて実感できる貴重な瞬間である。
本稿の論旨は、迷子になるための方法を示すことにより迷子になる要因を自分の中に発見し未然に迷子になる事を防ぐためのものである。例え今まで一度も迷子になった事がないと言う人も迷子の要素を充分に備えている事もあり得る。自信過剰から肝心な時に迷子にならないよう心して読んで欲しいと思うところである。
(付け加えておくが、これは迷子になるまでであり「迷子になったらどうすれば良いか」を解説したものではないので念のため。)
自分は迷子になどなったことはないと言う人は多いかも知れない。しかし実際は迷子になったことを忘れているだけであり、大抵の人は迷子を体験しており、迷子になる可能性を秘めているのである。
例えば迷子になった場合に泣くしかない子供ならばともかくそうでない場合は、地図を探したり人に尋ねたりして目的地や現在地を知る。そうして迷子の状態を解消すると今まで迷子だったことやどうして迷子になったのか気にしなくなってしまうだけの事なのである。実際問題として道が分かれば良いということではない。一瞬でも自分の位置や目的地が分からなくなっている状態が迷子という現象なのである(と、ここでは定義する)。その状態を解消できるかどうかが大人と子供の(程度の)差であるだけで迷子になるかどうかとは無関係なのだ。(だからといって自分で迷子状態を解決出来ない人が子供だと言っているわけではない。)
迷子の状態にも数多くの種類が考えられるが本稿ではそれには敢えて触れず全てを一つの迷子という名で表すことにする。現在考えられているそれぞれの迷子状態と原因との関連が究明中であることと迷子に到るプロセスを問題にした場合に迷子の種類がそれほど大きく関わらないことがその理由である。
人が迷子になる場合には当然幾つかの原因がある。その原因の基本要素は以下の3つであると考えられる。
1.方向感覚が鈍い。
2.記憶力(集中力)がない。
3.時間、距離に対する感覚が鈍い。
『1.方向感覚が鈍い』と、当然正しい方向へ進むことが出来ずに迷子になり易い。方向感覚は磨けるものらしいが(未確認)いわゆる感覚の鋭い人からは考えられない事を鈍い人は行う。角を曲がった回数とか通り過ぎた交差点の数や種類とか、全く関係がなく方向感覚は狂ってしまう。ある瞬間に「今、北だと思っている方向はじつは南ではないのか?」と疑うと今まで持っていた方位に対する感覚が逆転してしまうことも出来てしまう。方向感覚の弱さがそうさせてしまうのである。ある程度方向感覚の強い人の場合は通常はそれに頼ったりしても大丈夫だが一旦狂ってしまうと少々厄介である。高い山に車で登ったりすると山の回りをぐるぐる回るために頂上に着くころには大抵の人は方向感覚が狂ってしまう。その時は方位磁石や天体によって感覚を戻そうとするが方向感覚の強い人は狂ったままの自分の持つ感覚を疑うことが出来ず、西から昇る太陽を見ることになったりする。都会に住む人の方向感覚は、絶対方位ではなく最寄りの駅からの距離と相対的な方位(角度)によることがあるらしい。都会人は角度と距離による極座標系、田舎な人は直交座標系で方向感覚を持っているというわけである。更に一部の都会人は水平方向のみならず垂直方向にもその方向感覚を遺憾なく発揮する。広く何階層にもなっている地下街や複雑に繋がったビルの中を行き来する場合にエレベーターやエスカレーター、歩く歩道等の距離間を狂わせるもの(自分で歩かないため)を多く利用してなお自分の位置を把握している人もいると言う。まさに驚異である。
『2.記憶力(集中力)がない』と、回りの景色や町並みを見落とし、同じ道を通ってもそれと分からない事も大いにある。既に迷子であると言える。砂漠やジャングルでは人は同じ所をぐるぐる回ると言うが、町中でもそういった現象は起こる。経験者に聞くところによると、何度目かになってようやく気付く様である。話をしながら歩いていたりすると割と簡単に起こり、結構驚いたりする。通勤や通学に使う様な道では体で感覚的に地図を覚え込んでいるために滅多にそういったことは起こらないが、珠に街へ出掛けてみるとかそれほど急いでないからぶらついて見ようと思う場合に起こる現象である。自分はもっと遠くまで来ているつもりなのに何だか最初の位置に近づいているなあと感じる場合は自分は既に迷子だったと言える。
『3.時間、距離に対する感覚が鈍い』人は曲がるべき交差点を越えてどんどん進んでしまってもおかしいと思わない。歩いて5分とあっても30分以上歩いてしまったりする事もある。なまじ体が丈夫だったりして少々歩き続けても平気な人は、もう少し先に目印になるものがあるのでは?等と考えてひたすら歩き続けていくのである。2度目、3度目に通る道ではこう言った過ちを良く犯す。確か〜〜のある所を曲がった筈なんだけれど、等と思ってそればかりに気を取られていると通り過ぎても気付くのに時間が掛かったりするのである。
以上の基本要素のうちどれか1つを持っているからと言ってすぐに迷子になるというわけではない。そのため自覚症状が見られないと言う問題は残るが、たまに迷子になる程度であろう。基本要素の3つのうち2つ以上を持つ人は、ある程度条件さえ揃えばほぼ100%迷子になると言って良い。3つ全て持つ人は稀であると思われるがこう言った人は自分が迷子になることに絶対の自信を持っており、必ず複数人数で行動を取るようにしていたりする。別にずるくはない。迷子の危険に対する本能的な防衛機構であると考えられる。
また、基本要素は状況や性格によって強弱が生じることも考えられる。基本要素を少しでも持つ人はその要素を強化し迷子への可能性を高めてしまう効果を持つ状況や性格を排除するように心掛ける必要がある。迷子への可能性を強化する要素には例えば以下に述べるような状況、性格の事である。
・自分の選択に自信を持ってしまう。
・全く何の理由もなく進行方向を決めてしまう。
・地図の見方が分かっていない。
・寄り道をする(したくなる)。
・急いでいる。
おまけに迷子の人は以下の様に考えることがあることを紹介する。
・曲がり角は常に直角である。
・道は常に直進している。
・(いい加減に書かれたものであっても)地図は絶対正しい。
・地図が間違っている。
ここまで迷子の要因を探ってきて言えることは、迷子にならないためには方向感覚を身に付けるべきであるということである。地図や案内板に頼る事無く自分や目的地の方向や位置を常に把握出来るようにならなければ迷子という状態から抜け出すことは出来ないと言える。地図はあらかじめ覚えておき、あくまで補助的に使うものと言えるだろう。方向感覚をしっかり持ち続けるためには初めはかなりの努力が必要であると考えられるが、前述の通り磨かれればそれだけ鋭敏になっていくのである。こうして身に付けられる空間把握の感覚はもしかしたら(渡り鳥の様に本能的に)人に初めからあるものなのかも知れない。どの様な訓練によれば方向感覚が効果的に良くなるのかは調査中であるが、実践と継続が重要であることは他の何かを習得することと同様であると考えられる。出歩くときには常に自分の位置や方向を把握し続けるよう意識し、決して他人任せにしたりしないよう努めるべきなのだ。そうすればあらゆるものに進むべき道(TAO)が見えてくるであろう。しかし簡単ではないから時間が掛かるも知れない、孔子にも「40にしてまよわず」とあることだし。
|