虹を目指すゴジラ

加藤法之



 数年ぶりに虹を見た。悪戯な天気雨から逃げるようにバスに飛び乗った直後のことだ。気怠く揺られた車窓から見たそれは、片足しか見えないような中途半端な物じゃなく、何にもない濃尾平野の地平線いっぱいに広がって、割ったドーナツを地面に突き刺したような見事な物だった。
 今回の文はそんな虹が消えるまでにぼんやりと考えた想いが元になったものであり、多少散漫なのはお許しいただきたい。

 赤・橙・黄・緑・青・紺・紫。虹は七色とされているが、僕にはじっと見ていても六色(紺を抜いた)しか分からなかった。性格ががさつだからだろうかなどとも考えてみたが、どうも七色という定義自体が普遍的なものではないらしい。六色と見る国もあり、五色と見る文化もある。アシモフ氏によれば、ヨーロッパのさる地域では四色とみなしているところもあるそうだ。
 とはいえ、虹を美しいとみることは人類共通のようで、それを証明するために昔日より美術のモチーフとして虹が多く用いられたことを殊更挙げなくとも、空に掲げられた神秘で儚い橋を見る人々の夢幻の眼差しを、我々が容易に思い出せるという事実だけで十分であろう。

 ところでこの虹、他の生物にも同様に美しいのだろうか。というのも、犬はモノクロの視覚しか持たないことが知られているし、モンシロチョウなどは雄雌を見分けるために紫外領域の光も感知できているというように、ある生物には、その生物固有の可視周波数領域が存在し、人間のように赤から紫までが可視光線領域というのは、全生物にとってみればあくまでもローカルな常識でしかないのである。
 昆虫学者の日高敏隆氏は、そもそも生物が、その生物にとっての視覚の知覚可能周波数範囲を決定するのは、その生物が生存するうえで認識することが必要なサイズであるという主旨のことを書いていた。自分なりに要約すると、例えば人間にとっての可視光線は数PHz(ペトラは10の15乗)だが、これは人間の生きていく上で必要な物質界がマイクロメートル程度の大きさを基準にして構成されているからであり、既出のモンシロチョウが紫外線を感知出来るのは、羽の色を決定する因子にサブミクロン以下の粒子が絡むためということになろう。
 と考えれば、自然界に存在する生物の中で、虹が我々の知覚するように七色の虹として見えるのは実は人間だけかもしれないのであり、空を飾る自然の芸術をあれほど美しく堪能できるのは人間だけかもしれないことになる。

 となると、自然というのはわざわざ虹の美しさを客観的に理解させるために我々を進化させたのであろうかとの疑問が湧いてくる。人間というのはそれほどまでに選ばれた生物だということなのだろうか。
 この考えは、あまりにも傲慢(言葉が感情的ならば人間至上主義と言い換えても良い)であるように思われる。”美しさを見分けることが出来る生物のために虹は存在する”というように多少間口を広げた表現を使おうとも大した譲歩にはなっておるまい。ガイア論者でなくともこの考えに好意的になれないのは、我々が周囲をちょっと見渡すだけで、時間的にも空間的にも人間が存在するのは余りにもちっぽけな範囲でしかないことを思い知らされるからであり、そうと考えるには余りにも生物は平等に自然を共有しているように見えるからである。

 では、何故に自然は我々だけにあの七色のサインを送り出してくるのであろうか。我々にとって虹は何のために存在するのだろうか。我々を魅せること以外の虹の隠された機能はあるのだろうか。
 疑問はまるで虹自身のように積層してゆくが、この難問を解くには、虹を見たとき我々がどういった反応をするかが手がかりになると思われる。
 ということで、虹を見たとき、我々はどう思うであろうかを考えてみる。美しい、綺麗だ、といった反応がまず普通だ。それから、もっと近くに行ってみたい、と思う場合もあるかもしれない。美味しそうなどと思う人間もいるかもしれない。(一人は知っている。)
 この反応の中の一つが僕の気を特に惹く。乃ち、”行ってみたい”と思う場合だ。
 ”行ってみたい”と思う者は、具体的にどのくらいの割合でいるのだろう。正確に割り出すことはとうてい無理だが、かなりの率になることは間違いない。個人個人の思いを裏付けることが出来ないので信憑性に欠ける断定であることは認めざるを得ないが、虹にはそう思わせる何かがあるのだ。
 ”行ってみたい”という感情が起きる精神面のメカニズムは実のところ、鉄橋を走る汽車や、空を飛ぶ飛行機を見上げたときに起きるそれと同種の物であろう。それは畢竟、現実からの逃避願望がむくむくと無意識の中で膨張した結果の感情と解釈できる。
 とはいえ不思議なもので、行きたいという願望に素直に従って、本当に行ってしまう者はあまりいない。それもその筈で、物理現象として虹の発生機構を鑑みれば、追いかけても届かないことは分かるし、たとえ向かったとしてもすぐに消えてしまうから、そんなものを追いかけて何になるというわけだ。
 だが、その事とも相まって我々の足を彼のオブジェに向かわせないもう一つの理由は、”行く”ことが”戻ってこられない”ことと表裏一体であるという意識ではなかろうか。虹の果てに向かう...辿り着けない...片道の旅...。
 その思いは当然、汽車や飛行機を見たときも起こってしかるべきだが、虹を見たときほどそれが強く意識されることはないように思う。
 これは結局、儚く消え入る虹に自分を重ねることが、それと同化して行動することに対する不安を呼び起こすためであろう。虹を見るときは太陽を背にしていることも消極的な思考に向かわせる一要素かもしれない。オズの国に行ってはみたいが、帰りの橋は消えているかもしれない...。
 そんな風に考えてくると、逆説的に虹を見て実際に歩き出せる人というのは、実生活に対して未練を感じなくなった人だけじゃないかとも思えてくる。
 人間に対する虹の影の機能がこうして徐々に浮き出てくる。虹の存在目的は、それを見た者の中でも更にある特定の資格を持った個人に、別れや死を予感させることではないか。
 今いる自分の環境に疎外感を感じている者、それが際だって、まるで両脇が瓦解した道を、バランスを取ってようやく歩いているような不安定な生を生きる者がいる。そんな人が見た場合にのみ虹はその本来の機能を発揮するのだ。その者の暗澹たる細き道に繋げるように、虹は開陳するのだ。我が橋の上を歩めと。
 メッセージを受け取ることができた者は、人知れずさよならをする。行く先はオズか、はたまた黄泉か。

 虹に暗喩として内包されているかもしれない死のイメージ。生物共通に与えられた最後のイベントを喚起する物として、自然が虹を我々のために用意したと考えるならば、当初の人間至上主義への反発も少しは収まる気がする。自然はあらゆる生物に対して、その生物にしか分からないような方法で、彼らが現状環境へ適応出来なくなっていることを悟らせる、つまり死を宣告しているかもしれないからだ。それも我々にとっての虹の如き美しい方法で。
 これはそんなに悲劇的なことではない。その生物はその時、その環境からの逃避を試みる。多くの場合死のみが待つ逃避だ。だが、虹の果てに新天地を見いだす者も、当然いるだろう。そんな風に、行き詰まった生物に次の一手を教える縁台将棋の見物人の様な役割を、虹(と、他の生物に対して同様の機能を持つかもしれない他の自然現象)は果たしているのではなかろうか。勿論その手が正しいとは限らない。無責任な見物人は、あっという間に詰まれて悔しがる熊さんを後目に何処へかに去ってゆくのだ。
 アポトーシスとは細胞の自発的な死滅をさすが、死すべき運命の細胞はその最後の瞬間にそのサインを受け取るのかもしれないし、レミングはその死への行進を進める果てに、彼らにしか見えない虹を見ているのかもしれない。が、また同様に、エリオプスも過酷な水上に虹を見つけて陸に進んだかもしれないし、オーストラロピテクスも虹によって草原に引っぱり出されたかもしれないのだ。

 こんな妄想を述べる以上、そこには当然立証が必要になるが、これまで述べたように一生物に一つのサインであることを考えれば、その証明がほぼ不可能に近い難行であることがわかる。バーチャルリアリティが如何に発達しようとも、解析するのは所詮人間の意識だからだ。変身してもカフカはカフカなのである。
 ところが。僕はこれを立証する証拠を一例提示できる。それは他でもない。あのゴジラについてである。
 ご承知の通り、ゴジラは海から上陸し、地上で破壊の限りを尽くした後、海に戻ってゆく。貴重な記録映像はゴジラ上陸から帰海までを何度も納めているが、それらに決まって、ある共通のサインが出ていることに気付いたのだ。フィルムは我々の可視領域よりも高い波長の色でも写す(感光する)ことが可能であるため、偶然にも撮ることが出来たのであろう。ゴジラはまるでそれが現れるのを予感していたかのように都市の破壊を止め、海上に進むと、やがてそれは現れるのだ。決まって残り少なくなっているフィルムはしっかりと映し出す。ゴジラがそれを目指して悠然と去ってゆく様を。
 我々の目にあるときは白、あるときは赤,黄と、変幻自在なそれを目指してゴジラは泳ぎゆく。ゴシラにとっての帰郷のサイン...。
 我々の目にはそれは偶然にも、”終”と読めるのである。

おわり




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