偏食論

水田徹



 本論文は、偏食によってさまざまな弾圧を受けてきたものの視点による偏食論である。科学的手法により、出来る限り公平な立場で話を展開して行くつもりだが、視点が視点だけにそこかしこで感情的になるのも仕方のないところだろう。とりあえず、何故偏食すなわち食べ物の好き嫌いが生じるのかについて述べたい。

 味覚というものは、視覚、触覚、味覚、嗅覚、聴覚の五感の内の一つであるが、実際には味というのはこれら五感が組み合わさって知覚される。私個人の意見としては、主に味覚と触覚が作用し、視覚と嗅覚が補佐的に働いていると考える。また味覚や視覚は精神面に作用し、触覚や嗅覚は生理面に作用すると考えている。
 そこで、好き嫌いというのがこの精神的、生理的な拒否反応であると考えると、好き嫌いには次の四段階が考えられる。

   1.生理的拒否
   2.生理的嫌悪
   3.精神的拒否
   4.精神的嫌悪

 1.生理的拒否とは、アレルギーの様に本人の意思と関わりなく体が勝手に拒否するやつのことである。友人にキュウリがダメな奴がいたが、そいつは実は瓜類を受け付けないのであって一般的な人ならだれでも喜ぶスイカやメロンすらダメなのであった。
 2.生理的嫌悪とは、擬似的な生理的拒否反応であり、食したときの歯触り、匂い、味、のどごしなどが生理的に受け付けないものである。生理的拒否反応との違いは生理的拒否は多分に食品の成分的なものが関与するものなのに対し、生理的嫌悪は主に感覚が関与する点である。どこかの国でピーナッツアレルギーの人が、スパゲティーか何かをレストランで食べたとき、隠し味として小サジ一杯程度のピーナッツ粉末が使われていたためにアレルギー反応により呼吸困難か何かになって死んでしまったという新聞記事があったが、アレルギーというのはこういったものである。生理的嫌悪はあくまで擬似的なものであるから知覚できなければ平気である。
 例えば私が肉の脂身や鶏の皮が嫌いで、寒天がかつて嫌いだったのもすべて、この生理的嫌悪によるものであるが、私がそれらをどうやって食べていたかといえば、細切れにして少しづつ飲み込む、またはその細切れを大量のご飯やパンなどといっしょに飲み込むといった手法によっていた。すなわち金のように黄金色をした金属でも微粉末にすると、鉄や鉛のそれと同様の黒色粉末になるというように、そのアイデンティティーが知覚されないレベルまで微細化することによりクリヤーしたのである。これを食の分子還元説と名付けたい。また擬似的なものであるから何かのきっかけでそれが逆転することもありうる。その食べ物が食べられなかった理由がその知覚ゆえのものであったのに、その知覚自体が平気になったため食べられるようになったとか。
 3.精神的拒否とは、かつての体験や憶測等により、食べられないと判断するもの。例えばナマコを見て、これはきっとこういった歯応えで、飲み込むときにこれこれこういうような感覚になるに違いないから私には食べれないものだと判断するようなもの。食わず嫌いもこの段階に分類されるであろう。これは生理的なレベルにフィードバックされ生理的嫌悪と密接に結び付く。
 4.精神的嫌悪とは、精神的にいやということ。まずいとか気分的に食べる気がしないとか。

 食べ物の好き嫌いに貴賎があるとすると、当然上記の四段階があり、番号が大きいほど賎しいすなわち弾圧されてしかるべきと考える。まず1のアレルギーを責めてもしょうがないことは誰もが認めるところだ。
 2、3についても仕方のない面が大きい、と私は思う。当然のことだが、私が食べられないのものというのは、大体ここに属しているのだ。詳しく言わせてもらえば、私が嫌いなものというのはほとんど肉の脂身が原点であり、飲み込むときに生理的反応で戻しそうになるのだ。だからヌルヌルするもの、油分の多いもの、噛み切れないもの(上述したようにMassが小さければ平気なのだ)といった性質を持ったものは肉の脂身に結び付くため、ダメなのだ。これらのものは私が、飲み込むときにちょっと戻したくなるようなそののどごしがたまらなく好きにならない限り、好きになれないだろう。しかし、仕方のない面が多いとはいえ、克服しなくてはならないこともまた確かである。特に3というのは生理的嫌悪に結びつかない、単なる食わず嫌いの場合も多い。
この食わず嫌いの部分については本当にダメな場合もあるし、実は何とかなる場合もあるので、人間の偉大なる能力:推測と学習の成果を何とか捨て去って積極的に挑戦すべきだろう。
 そして4、私に言わせれば論外である。私は食の義務派であり、出されたものは最大限の努力をもって平らげなければならないと考えているから、食べようと思えば食べられるのに食べないというのは許せない。極論をすると、そういうことを公言する人は大抵、2や3の領域を体験していない。また、そういう人に限って2や3が原因で好き嫌いがある人を、こんなものが食べれないのかと非難する傾向にある。しかもそういう人は、自分は食べられないのではなくて食べたくないから食べないだけだから別にいいと思っている、といった節がある。でも、4の理由で食べない人のほうが、2や3の理由で食べない人より非難されてしかるべきなのではないかとここに強く主張したい。

追記:偏食に対してさまざまな弾圧を加えてきた者の視点による偏食論の投稿を期待する。



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