ひあろ
原稿用紙というものがある。
小説等の原稿やレポート、小中学校での作文などによく使われている。一般に20字×20行の400字詰でタテ書きとヨコ書きの2種類がある。原稿用紙には書き方があって、1マスに1文字を書くとか、行頭に句読点がくる場合は前行の最後のマスに入れるとかいうものである。しかし、雑誌原稿ならともかく、小学校の作文でこれを守って書かせるのはおかしいのではないだろうか。国語教育的にも良いとは言えないのではないだろうか。
原稿用紙の最も大きな問題点は20×20のマスで明確に区分けされ、その1マスに1文字を書かなければならないところである。段落の終わりでもない限り無用な空白をあけることは許されない。日本語の構造上このようなことが可能なわけだが、それよりもむしろ活字によって日本の文字を四角の中に押し込めてしまった事に直接の原因がある。いわば印刷者の都合(合理的、経済的、その他いろいろ)によってマス目の概念ができあがったのである。アルファベット文化圏では単語を単位としているのでマス目は重要ではない。日本語で"印刷"する以上ある程度は仕方のない事ではあるが、日本語にも単語という単位は存在し、単語の途中で切られたら意味がとりにくくなる事も多い。
原稿用紙では1行を20字で改行しなければならないため、しばしばそういう事が起こる。例えば「あのねこの子」という文で「あのね」まで書いたところで行末にきてしまい「この子」を次行に書いたとする。普通の人なら前後の文脈からすぐに「あの猫の子」だと理解できるが、それでも一瞬とまどうことになるだろう。他にも読む側として例えば「〜とは限」で改行していたら読者は「〜とはかぎ」と読むだろう。そして次行で「定できない」とあったら、「あれっ」と思って前行末に戻り「げん」と読み直して「ていできない」と続けなければならないだろう。まぁそれは極端すぎるかもしれないが、いづれにしろ、無理やり20文字で改行するため、たとえ一瞬でも意味が通らなかったり、もう一度読み直したりという事は頻繁に起こることである。これは文章においてスムーズに読むこと、ひいては理解さえも妨げることになる。
書く側としても熟語等はやはり続けて書きたいと思うし「キーボード」が「キーボ」で切れ、「ード」だけを次行に書く時には何か変な気持ちになるだろう。また、たとえヨコ書きにしろ英語が文中に出てくる時にはどう書いたらよいかとまどうのではないか。「flower」を「flow」、「er」と切ったら「流れる人」と勘違いされるかも知れない。
どれもみな「1マスに1文字」という規則のために起こる事である。これで良いはずがない。
意味や読みやすさを考えれば、本当なら改行は意味の切れ目で行なうべきである。そのためには、単語や熟語はなるべく2行に渡らせない、句読点やとじカッコ、音引(のばす音の記号)等は行頭に持ってこないなどの規則を「1マスに1文字」という規則よりも優先させるべきなのだ。行末が不ぞろいになるのが気になるのなら、1マスに2文字書くとか3文字で2マス使うとかして調節すればよい。例えば「キャット」とかはャとッを2つまとめて1マスに入れてしまって良いだろうし、特に強調したい語句は大きな文字で書いても良いだろう。漢字熟語は続けて書いてこそ熟語であり「流」「石」とか書いたらそれはもう2字の漢字である。「バイオ」で改行して「リン」だけ次行に書くのはおかしいと学校でも教えて欲しいものだ。
私は原稿用紙反対を言っているのではない。マス目はいろいろと目安にもなる。雑誌等では、あらかじめ決められたページや文字数があり、マス目があれば書いた文字数がすぐにわかる等利点も多い。しかし小学校の作文では原稿用紙何枚以上程度の規定しかなく、文字数によるカウントは無い。
要するにマス目を強制するのはまちがいだと言いたいのである。マス目はあくまでも目安にとどめるべきなのである。
将来的にもっとワープロを使う人が増え、学校教育の一環としてワープロの使い方が取り入れられるようになれば意味の区切りによる改行はますます軽視されることになるだろう。ワープロは機械的処理のしやすさから、見えはしないがマス目がさらに厳格だからである。文章を書く人が増えるのは結構なことだが、読み手のことを考えない書きっぱなしの文章が増えるのは堪えるに忍びない。
この文章だって偉そうなこと言えた文章じゃないけどね。
(机上理論学会誌第8号掲載/1994.7.8 一部修正)
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