上野均
わたしはかねてから世界でただひとりの超高齢化社会の研究家であると自負してきた。超高齢化社会、それは無人の荒野であった。道先案内人もなく、道標もない旅。それがわたしが歩んできた道のりだったのである。
しかし、もうわれわれは孤独ではない。今をさること二百余年前、さるドイツの哲学者が「もし人間の寿命が八百歳以上になった場合」を論じていたのである。1786年に発表されたその論文とは「人類の歴史の憶測的起源」。大先達に敬意を表しながら、かれの理路をみていこう。
かれはこう論じている。「人間が八百歳以上にもなった場合を想定すると、父は子に対し、兄弟は兄弟に対し、また友人は友人同志で、もはや自分の生命の安全を殆ど保証し得なくなるだろうということである。」
また、こうも言う。「それほど長命な人類の作り出す悪徳はいやがうえにも堆積せざるを得ないから、彼等は世界を覆う洪水によってこの地上から掃蕩されるよりもましな運命に値しなくなるだろうということである。」
なぜか。かれの挙げる理由はふたつある。ひとつは生活苦によるものだ。「これほど短い生涯を過すに必要な生計のたすきを得るためにも夥しい心労に苦しめられる」というのに、どうして八百年もの生活に耐えることができようか?
もうひとつは「予測の生む過当競争」であり、思想史的にはホッブズ問題(正確にはその一側面)と呼びうるものである。「束の間の享楽にせよこれを将来に期待すればそのために数々の不正が行わる」のだ。それが八百年の長きにわたったらどういうことになるのか?悪徳は堆積するというのに。
大先達には申し訳ないが、どちらも人間が八百歳生きられない理由としてはやや軽すぎるきらいがある。また、あまりにも18世紀末ドイツ的情況に規定されすぎていて、思弁的普遍性を欠いているともいえるだろう。
しかし、単純に退けることはできない。やっとみつけた先行研究なのだから、もっと詳細に検討することとして、初めの言説に戻ろう。この背後にあるのは、生存競争が生存年齢に比例するという考え方である。八百歳は八十歳の十倍苛烈な生存競争を経験しなくてはならない、というわけである。
ここに欠如しているのは、いうまでもなく成熟の哲学である。八百年生きることによって獲得される人々の英知、・・・たとえば緩やかな成長や対立を解消する手段、均衡を主眼とする価値観・・・などはまったくかれの考慮には入っていないかのようである。しかし、かれに「啓蒙とは何か」という論文があり、成熟と理性の意義を説いたということになれば、われわれの批判も立ち止まらなくてはならないだろう。一方で成熟を論じるかれが、他方で競争の等比級数的堆積を説く。この分裂をどう捉えたらいいのか。
かれの「啓蒙」あるいは成熟は、個人の行動の原理としての合理性を意味する、と仮定してみよう。それは「享楽を将来に期待する」ことを指す。しかし、各人がそれを追求した場合、悪徳は堆積し、人々は互いの安全を保証し得ないことになる。個人として合理的にふるまうことが、全体としての不合理を帰結してしまうというジレンマ。しばしば「囚人のジレンマ」として表されるこうした問題を、かれの成熟は解決し得ないことを、かれの超高齢化社会論は示しているのである。
では、かれの思想に出現できなかった「成熟」とはいかなるものか。端的に言えばそれは「仙人の成熟」であり「仏の成熟」である。この二つはもちろん微妙に違う。「仙人」は孤独であり「仏」は慈愛であるからだ。かれの思想はどちらにも届いていない。仙人の個人主義からも仏の愛他主義からも遠いドイツで、かれが思考せざるをえなかったからだろうか。
しかし、われわれの目的はかれの思想的辺境性をあげつらうことにあるのではない。われわれの信奉する「仏の慈愛」は、かれにもまた向けられているからだ。いささか自画自賛めくが、この論文の発見は超高齢化社会文献学の輝ける第一歩である。この新しいジャンルが豊かな実りの時期を迎えることを期待しつつ、筆をおきたい。
補足しておくなら、この田舎哲学者の名はイマニュエル・カントという。以後お見知りおきを。
<参考文献>
イマニュエル・カント 「啓蒙とは何か」 岩波文庫
トマス・ホッブズ 「リヴァイアサン」 中央公論社
岩井 克人 「ヴェニスの商人の資本論」 筑摩書房
林根 天正 「イラストで学ぶ東洋思想」 春秋社
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