超高齢化社会の諸問題 I

上野 均



 人間の寿命には確かに限りがある。それは細胞の再生可能回数によって規定されているはずだ。それは一体何歳くらいなのか。特に確証があるわけではないが、手元の「世界長寿者リスト '90」(原題 "Don't Trust Over One Hundred")に記載された、いつ終わるとも知れない長大な名前の列を見るかぎり、少なくとも100 歳を下回ることはないと推定できる。
 平均寿命100 歳。寿命の生物的限界の平均値を100 〜120 歳とすると、ほとんど不可能な数字ではある。しかし、世界最高水準の長寿国では、既に80の壁は破られているのだ。事故や犯罪、胎乳幼児死亡を考えると、かなりの人間が生物的限界寿命に近似した値に到達しつつある、そう考えられないだろうか。つまり、現在の平均寿命は、若死にする少数者と限界寿命近くまで生きる多数者という、超高齢化社会型寿命分布を既に表している、といえる。
 この傾向に歯止めをかける条件は、今のところ現われていない。これが由々しき事態であることは、今までも多くの論者によって指摘されてきた。すなわち、人間の人口調節能力の(意志的)低下である。これが環境論者的に言えば、人類の「原罪」であることは論を待たない。人口調整能力を失って増え過ぎた人間は、自然の体系を破壊している。これはイデオロギーのいかんに関わらず、共有されるべき認識であろう。
 問題はその解決策だ。考え得る最高能率の解決策は、言うまでもなく戦争である。もちろん核兵器、細菌兵器の多用は、自然環境への悪影響を考慮して控えるべきであり、中性子爆弾などのクリーンな兵器が望ましい。しかし、その能率のあまりの高さが、最も過激なエコロジストをもってしても、採用をためらわせているのが現状である。
 ここでひとつの視座になるのが、「細菌史観」だ。民衆生活への着目と並んで、数量的データ、物理的環境への着目を進めてきたアナール学派のあだ花である。すなわち、流行病(ペスト、コレラ、天然とうなど)を、人口移動、ひいては歴史の動因として分析する視点である。人口調節機構としての病。
 さて、病にも様々な種類がある。病原菌の生存戦略からいえば、あまりに強力、つまり殺傷能力が強いことは愚かなことだと言えるだろう。細菌は保持者に寄生して、繁殖し生存を続ける。保持者が簡単に死んでしまえば、安定した生存環境は維持できない。その意味で従来の流行病はとかく強力すぎるという弱点があったといえる。
 その難問を見事にクリアしているのが、梅毒スピロヘータのようなタイプの菌だといえるだろう。梅毒は感染から発病までに長い潜伏期があることで知られている。長いものでは数十年に渡るという潜伏期の間、菌は安定した生存を維持できるのだ。そして一挙に発病、繁殖するのである。
 生存を維持するという意味では、毒性を欠いた形で体内に寄生する体内細菌の存在も興味深い。その代表例が大腸菌である。随分回り道をしたが、本稿の趣旨は体内に多量に寄生しているこの大腸菌にある。つまり大腸菌は本当に毒性を欠いているのだろうか。もしそれが、長い長い潜伏期に過ぎないとしたら。
 たとえば大腸菌花咲病という病を仮定してみよう。竹が2000年に一度花を咲かせ枯れるように、大腸菌もまた一斉に花を咲かせ枯れるのだ。体内の大腸菌が一度に死んでしまうことがもたらす体内変調の大きさは、想像するに余りある。そうした重い病でありながらその潜伏期が100 年を越えるため、今まで観察例はひとつもなかったのだ。しかし誰もが限界寿命まで生きる超高齢化社会においては、この大腸菌花咲病の問題は大きくクローズアップされてくるに違いない。明日の医学への予言として、花咲き病の研究を促す一方、先に述べた人口調節の方法として、大腸菌の潜伏期=開花期を半分に短縮する研究に着手することも、あわせて提言しておく。

<参考文献>

 「世界長寿者リスト '90」        無益出版
 (原題 "Don't Trust Over One Hundred")
 「'89 最新図説 現社」         浜島書店
 「パンツを捨てるサル」  栗本慎一郎  カッパ・サイエンス
 「森林がサルを生んだ」  河合雅雄   講談社文庫
 「当世病気道楽」     別役実    三省堂



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