動物との契約

上野均



 人間は誰もが自分の生存を目的として生きている。生存には当然「富」が必要となり、それをめぐって闘争することになる。生存に十分な分だけ取って、仲良くやればいいようなものだが、人間の持つ予期能力が災いしてしまう。つまり、いま必要な「富」だけではなく、将来必要になるかもしれない「富」をめぐってまた争ってしまうわけだ。そうなるとわかっちゃいるけどやめられない、「万人に対する万人の闘争」が始まるのである。
 それじゃあまりにも具合が悪い。地には平和をというわけで、みんなで約束しよう、となる。自分勝手にふるまう「権利」を少しづつ譲って無茶な喧嘩はしない、と。その約束を「社会契約」と呼ぼう。でも正直者は馬鹿をみる、ルールを守れば競争において不利になってしまう。そんな約束をだれが守るだろうか。
 十七世紀イギリスの思想家、トマス・ホッブズは、ここまで考えてきて、ついに怪物を持ち出した。平和のために、人々を統治する「国家」。それは社会契約の結果ではあるが契約した人々の力をはるかに越えた力をもって、人々を支配する。彼は、そうした国家を「リヴァイアサン」と呼び、それはそのまま彼の主著のタイトルになっている。
 さて「リヴァイアサン」は聖書に登場する海獣の名であるが、本稿の「動物」とはそれを指すわけではない。たしかにリヴァイアサン=国家との契約は重要なテーマたりえるがここで扱われるのはごく普通の畜生どもである。
 ホッブズは社会契約を考える上で、その対象として動物までも視野に入れていた。嘘ではない。「リヴァイアサン」の第一部第十四章「第一、第二の自然法と契約について」において、「動物との契約」という項が存在しているのだ。長くはないから、引用しておこう。
 「動物との契約は、これを無効とする。なぜなら、彼らは我々のことばを理解しないから、権利のどのような譲渡も理解しないし、受け入れもしない。また彼らからの権利の譲渡もありえない。そして相互の受容なしには、契約はありえない」
 ここで重要なのは、というか驚嘆に値するのは、もちろんその結論部ではない。「動物との契約」というまるでイソップのような問題設定であり、その思弁の徹底性であろう。我々も同じ机上理論家として彼の徹底性を見習っていかねばならない。頑張ろう。   おわり


 と、最初、私は考えていた。この項の存在意義が良くわからなかったのだ。相互受容不成立の極端な例示だろうぐらいにしか考えていなかった。しかし、再読、三読するにつれこの項の「恐ろしさ」のようなものが明らかとなってきたのである。

 古来から論じられてきたテーマに「人間とはなにか」というものがある。「人間」を形態として捉えた場合、一見何の問題も起こらないかのように見える。「神の似姿」ということばもあるくらいだ、直立してて、毛が少なくて、ほら、それが人間だよ、ってなもんである。では「人間」の本質とは、「肉体」なのだろうか?死体は「人間」だろうか?形のあるうちは「人間」だとすると、どのくらい朽ちると「人間」ではなくなり、肥やしとなるのか?サルはどうして「人間」ではないのか?そこに中間形態が存在するなら、そこに明確な基準はないのか?
 もしかすると、昔の人は、人間とそうでないものの間には明確な基準はないと考えていたのかもしれない。人狼、吸血鬼、蛇女などさまざまな「亜人間/合いの子」が跋扈していたのかもしれない。しかし、その一方で「人間」を「魂」によって規定しようという思潮もあったはずだ。「魂」はかなり明確な基準たりえるが、その所在はやはり不確かだ。たとえば誤って犬に「人間」の魂が宿ることも考えられるが、その「可能性」を実証することは難しい。
 「魂」ではオカルトに過ぎるというならば、それをぐっと近代的に「人間性/理性」としてみよう。先のを、肉体中心的人間観とすると、知能=脳中心的人間観といえる。知能さえあれば、形態は問わない。すべて尊重するにたる「人間」である。
 とすると、人工知能は「人間」たりうる可能性を持つ。高度な知能を持つ(とされる)動物、たとえばイルカ/クジラ/サルも「人間」とみなし、同等の権利を付与できるかもしれない。
 その一方、人体改造の理論的根拠ともなるだろう。どれだけ形が変わろうと「人間性/理性」があるかぎり彼は「人間」なのだ。反対に無脳症(そんな病気あるかどうか知らないが)や精薄、胎児、死者は「人間」ではないとすることもできる。これはこれで、臓器移植など現代医学への大きな貢献を見込み得る。
 では「人間性/理性」をどこで判定するか?ホッブズの規定はここで生きてくる。その基準とは「ことば」なのである。ホッブズは「ことばの通じるものが人間だ」と言っているのだ。これは言語ゲーム論とも重なる視点だ。もちろん、イルカもクジラも声帯の関係で、「人間のことば」を話すことはできない。乳胎児もである。したがってここでは「コミュニケーション」ということばに置き換えてみよう。
 その場合、ペットを可愛がり、毛皮を着て、牛肉を食べる手合いや、戦闘的菜食主義者にして植物の大量虐殺者の言説に若干の整合性を与えることができる。クジラ、イルカ、ペットはコミュニケーションが可能であるが故に、愛護の対象となるわけだ*。

 しかし「ことばが通じる」とはきわめて主観的な事態でもある。正しくは「「ことばが通じている」と思っている」わけだ。だから「コミュニケーション」を基準に、「人間」の外延を考えていくことには危険が伴う。判定する側の基準によって、外延が変化してしまうのだ。それが「精薄/子ども問題」としてあらわれたり、「人種/階級差別問題」としてあらわれることも十分考えられるのである。

 ホッブズが「動物(animalなのかbeastなのかも調べていないが)との契約は無効である。ことばが通じないから」と書き付けたとき、それは「人間の外延」をも指示するものだった。人間のコミュニケーション可能性による規定、という現代的で危険なテーマがそこには潜んでいたのである。

* また、環境を破壊すると人類のためにならない、とする立場から動物愛護運動をする人々もいるだろう。これと前述のコミュニケーション派とあわせて「ヒューマニズム(人間中心主義)としての動物愛護」と呼ぶことができる。
 他方、「生命尊重」の立場から、動物愛護を唱える人々もいる。となれば、その目標は「最大生命の最大幸福」とでもなろうか。そのためには「人間」は排除されねばならないように私には思われるが。しかし惰弱なので、未だ自分の出した結論にコミットできないでいる。

<参考文献>

 トマス・ホッブズ     「リヴァイアサン」 岩波文庫
 イソップ         「寓話集」     岩波文庫
 フィリップ・K・ディック 「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」など
                        早川SF文庫
 ルーディ・ラッカー    「ソフト・ウェア」
              「ウェット・ウェア」早川SF文庫



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